儒教では
儒教とは孔子の教えが後の門弟たちによって大成されたもので、中国の国教です。儒教が中国の国教となったのは漠の武帝(BCl4l〜87)の時でなのですが、古来より儀礼を重んじた儒教では、葬儀は「儀礼(ぎらい)」「礼記」「周礼(しゆらい)」の三礼によって行なわれていました。中国戦国時代の法家である韓非の著書で、春秋・戦国時代の思想・社会の集大成言われている韓非子が「儒者破家而葬」(儒者は葬によって家を破る)と批判したように、多額のお金を使い複雑な葬儀を行なって長い喪に服した。そうすることが孝と考えられていたのである。今でも儒教においては親の葬儀を盛大に営む事が何より大切な事とされており、元々儒教教団はそう言った葬儀に関する様々なしきたりを教授するための人から生まれたものといわれます。
儒教の死生観では人は死ぬと魂(こん)と魄(はく)と言う二つのたましいに別れ、魂は精神を、魄は肉体をつかさどるたましいであるとされます。魂は天の陽気からのたましいであり魄は地の陰気からのたましいであるとされ、魂は天に昇って神になり、魄は地に返るといわれています。残された者たちは魂を祀る為に位牌を作って廟に祀り、魄の戻る場所として地中に遺体を埋めますが、死者は、死後も生前と同じように生活すると見なされていました。
死が近づくと、その病人を北窓の下に頭を東向きに寝かせて病人の口と鼻に綿をつけ、その動きによって死期を知ったといわれます。死ぬとすぐに哀哭し、「復」という招魂を行った後、屋根に上り北にむかって大声で死者の名前を呼び、天に昇る魂を呼び戻そうとしたのです。死体を沐浴させ、爪を切り、死装束を着せ、食物を与えた後、親戚、友人が紙銭をもって弔問し、その紙銭は炉で燃やします。紙銭は燃やすことによって冥界の通貨となると考えられていたのです。庭には神を依らせる「重(ちょう)を立て、そのうえに死者の姓名官位を記した「銘」をのせます。
亡くなった翌日には遺体を整え、衣装を加える「小斂」の礼を行ない、その翌日には場所を移して、同様な仕方で「大斂」の礼を行います。その後納棺し、殯宮に安置する「殯(ひん)の礼が行なわれますが、この間、遺族は死者との関係に従って、厳格な服装規定に従い、たびたび悲しみを表わす舞踏が行なわれます。こととき泣き女が加わることもあります。
埋葬の日には「重(ちょう)」を先頭に柩車を墓まで運び、棺と明器を埋葬しました。家に帰ると祖廟と殯宮で声を上げて泣きます。その後も「虞祭」といって殯宮で死者の精霊を迎え平安を祈る礼が行なわれます。葬儀の仕上げでは死者を祖先の廟に合祀する「ふ祭」が行なわれ、これにより、死者の霊は福をもたらす善なる神にかわり、これ以後礼は、凶礼から吉礼にと変わるとされます。また、父母が亡くなったときには3年の喪に服することが決められていて、この間は、士大夫は公的な仕事から退くことになっていました。13カ月目には「小祥の祭」、25カ月目には「大祥の祭」を行います。
日本では仏教の影響が強かったため、儒教葬は殆ど行なわれませんでしたが、朱子学が奨励された江戸時代には、朱子の儒教儀礼を集大成した「文公家礼」に基づいて、水戸光圀が儒教葬を奨励したという歴史が残っています。
